参勤交代は、江戸へ向かい
江戸から国元へ帰る
(およそ、3月から7月)
ですが、庶民(農民)は違います
江戸見物が出来る庶民は一握りです
そして、庶民はもう一つ制限が与えられます
勝手に離村できない
旅行の自由さえなかったのです
ところが、これには但し書きがあります
1、自分の作ったものを売りに行くこと
2、巡礼で、神仏に公の祈願をすること
この2つの但し書き(建前)を守れば、大体は可能になる
そこで、”講”が重要となる
代参は代表者が代わりに参拝するというもの
時期としては、稲の収穫が終わり、正月を迎えると旅にでる
田植えまでの時期は暇になるし、参勤交代にも遭わない
では、代参講とは
例) 村人50人がいるとして、1年間2万円を集める 合計で100万円になる
50x20000=100万
50人の中から5人代表者を決め、50人分のお札を貰ってくるのだ
100万円を代表者5人で割れば、一人当たり20万使えることになる
この制度を10年繰り返せば、全員がお参り出来るようになり、10年に1度の参拝を非常に楽しみにしていたという
しかも、お金が無くなるまで自由に使えたのだ
代参講で有名な講は
伊勢講
成田講
甲子講
秋葉講
三峯講
熊野講
金毘羅講
霧島講
大山講
出羽三山講
榛名講
戸隠講
富士講
御嶽講
津島講
稲荷講
大峯講など有名な神社・仏閣

当時、最も人気の目的地は伊勢神宮でした
というのは当時の民衆は自由に旅行することはできず、参詣・参宮のための信仰上の理由での旅行のみ許されていたためです
しかし、江戸から伊勢参りに行った人のほとんどは、参宮の後で京都、大阪まで足を延ばして、名所・旧跡を巡り、芝居や繁華街の見物を楽しんでいました
「伊勢参宮大神宮へもちょっと寄り」
この川柳から、人々は伊勢へと言って旅に出るものの、目的であるはずの参宮は「ちょっと」で、観光がメインの目的だった様子が窺えます
また、民衆の楽しみは遠方への旅行だけでなく、花見・夕涼みなど市中や近郊での行楽へと広がって行きます
それらの遊びは当初は武士のものでしたが、町民たちも取り入れて、楽しむようになります
この頃、日本の識字率は世界の中でも高かった
講で集めたお金を、何に使ったかを書き残す為
日記帳と筆は必需品だったという
書けなくても、勘定表は必須だったようです
最低でも、20泊
長いと50泊
坂迎え・境迎え
伊勢参宮など、神仏参詣の旅をした者が帰ってきた際に、親戚や村の者が村境まで出迎えて、盛大に共同飲食・宴会すること
出発時には、坂送り
そして、村にもどり土産話をしながら、各人にお札を渡す
お土産品は、饅頭や甘いものが好まれたようです
また、勘定表を見せながら土産話をするのだが
遊郭で遊んだ場合などは、そのまま書かず神楽を上げた事にしたようだ
自由がない中の事を考えると、ワクワクするでしょうね
現代においても、代参講は存在する
江戸から国元へ帰る
(およそ、3月から7月)
ですが、庶民(農民)は違います
江戸見物が出来る庶民は一握りです
そして、庶民はもう一つ制限が与えられます
勝手に離村できない
旅行の自由さえなかったのです
ところが、これには但し書きがあります
1、自分の作ったものを売りに行くこと
2、巡礼で、神仏に公の祈願をすること
この2つの但し書き(建前)を守れば、大体は可能になる
そこで、”講”が重要となる
代参は代表者が代わりに参拝するというもの
時期としては、稲の収穫が終わり、正月を迎えると旅にでる
田植えまでの時期は暇になるし、参勤交代にも遭わない
では、代参講とは
例) 村人50人がいるとして、1年間2万円を集める 合計で100万円になる
50x20000=100万
50人の中から5人代表者を決め、50人分のお札を貰ってくるのだ
100万円を代表者5人で割れば、一人当たり20万使えることになる
この制度を10年繰り返せば、全員がお参り出来るようになり、10年に1度の参拝を非常に楽しみにしていたという
しかも、お金が無くなるまで自由に使えたのだ
代参講で有名な講は
伊勢講
成田講
甲子講
秋葉講
三峯講
熊野講
金毘羅講
霧島講
大山講
出羽三山講
榛名講
戸隠講
富士講
御嶽講
津島講
稲荷講
大峯講など有名な神社・仏閣

当時、最も人気の目的地は伊勢神宮でした
というのは当時の民衆は自由に旅行することはできず、参詣・参宮のための信仰上の理由での旅行のみ許されていたためです
しかし、江戸から伊勢参りに行った人のほとんどは、参宮の後で京都、大阪まで足を延ばして、名所・旧跡を巡り、芝居や繁華街の見物を楽しんでいました
「伊勢参宮大神宮へもちょっと寄り」
この川柳から、人々は伊勢へと言って旅に出るものの、目的であるはずの参宮は「ちょっと」で、観光がメインの目的だった様子が窺えます
また、民衆の楽しみは遠方への旅行だけでなく、花見・夕涼みなど市中や近郊での行楽へと広がって行きます
それらの遊びは当初は武士のものでしたが、町民たちも取り入れて、楽しむようになります
この頃、日本の識字率は世界の中でも高かった
講で集めたお金を、何に使ったかを書き残す為
日記帳と筆は必需品だったという
書けなくても、勘定表は必須だったようです
最低でも、20泊
長いと50泊
坂迎え・境迎え
伊勢参宮など、神仏参詣の旅をした者が帰ってきた際に、親戚や村の者が村境まで出迎えて、盛大に共同飲食・宴会すること
出発時には、坂送り
そして、村にもどり土産話をしながら、各人にお札を渡す
お土産品は、饅頭や甘いものが好まれたようです
また、勘定表を見せながら土産話をするのだが
遊郭で遊んだ場合などは、そのまま書かず神楽を上げた事にしたようだ
自由がない中の事を考えると、ワクワクするでしょうね
現代においても、代参講は存在する
大義を掲げてはいるものの遊び回り、甘いものを持って帰って土産話なんて、当時のことを想像するとなんとも酔狂で粋なことだなと思いますけれど、昔も今も庶民のやることってそんなに変わらないんだなって思います。
貴族や武将、高官達の暮らしぶりは教科書や史跡なんかでも教えてくれますけど、もっと身近な庶民の人達の暮らしぶりってあまり知る機会がないですからとても興味深いデス。
どこかのお城で展示されてたんですけど、改修工事の際に出てきた木材の裏に、当時の大工さんがイタズラ書きした棟梁さんの似顔絵と悪口があって、やってること同じなんだなぁってなんだか嬉しくなりました。
まりのさん
講については、色々調べたのだけど、一部しか載せられませんでした
三峯神社に行ったとき、各地の講からの寄付?
で、灯篭通りが出来ていたり、狛犬ならぬ狛オオカミも沢山の寄付からなるものでした
とにかくその量が多くて、気になった次第です
庶民は旅行に行く事も大変だったなんて、初めて知りましたし
行ってみてわかったんですが(三峰神社)、車のない時代にあの山を登ること自体が
正気の沙汰とは思えないほどでした
村を代表していたら引き返せない事もあっただろうし、それだけ、温泉などしか楽しみが無かったのかも知れませんね
何しろ山の中ですから
娯楽という部分では、当時の方は何もなかったんだろうと思いました
”どこかのお城で展示されてたんですけど、改修工事の際に出てきた木材の裏に、当時の大工さんがイタズラ書きした棟梁さんの似顔絵と悪口があって”
この間、富岡製糸場にも寄ったのですが、明治の建物でも、同じような事が書かれていたので、どの時代でも変わらないのかもしれませんねw